今日もご飯が食えるのは、リーダーがすべて悪いおかげです。

みんな結局、誰かに決めてほしいのである。

そうしてもしも勝てば、
「俺らがんばったもんね! 私らすごいもんね!」
しかし敗けたら
「アイツがあんなこと言ったせいだ…」
とブツクサ言うのだ。

企業しかり、国家しかりである。

日本では『ビジョナリ カンパニー』三部作としてまとめられている本の第三巻は、近現代のさまざまな組織の属性を数値化して統計的に処理した結果、「この組織は何をする組織である」というビジョンを明確に有しない組織は、たとえ短期的・中期的にはどんなに栄えたとしても、長期的には滅んできたことを明らかにしている。
このことを日本という国に当てはめてみると、すぐに慄然とさせられるのは、日本国憲法前文には明確に

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

という「スル文」が掲げられているのに対し、大日本帝国憲法には一切「スル文」がなく、日本とは何をする組織であるのかがまるで規定されていない点である。
大日本帝国憲法に書かれているのは、終始一貫して、この国の組織はどのようになっているか、という「国体」の話ばかりとなっている。
言い換えれば、会社にたとえれば大日本帝国憲法には就業規則や操業規定レベルのものしか明文化されておらず、企業理念ないし企業目的に類するものはその場その場で主権者が決めていくんですよ、という体裁になっている。
『ビジョナリ カンパニー』第三巻は、しかしそういう組織はいずれ滅ぶと言っているのであり、当たったといえないこともないのであった。

しかし忘れてならないのは、同書においては、「スル文」を形にするべくつねにイノベーションを起こさない企業は、やはり滅ぶとしている点である。
日本国憲法の前文にすばらしい「スル文」を掲げている日本人は、それを実現するべくいま本当に主体的に手を打っているといえるだろうか。
それともあいも変わらずいまだに、
「アイツのせいで敗けた…」
と言える相手を探しているだろうか。

パーフェクトなヒーローなどいない。
後から見れば、考えの至らない部分もあれば、子供を人質にとられたとかでいっときあえて屈する部分もあれば、判断を誤ることだってある。
これは戦敗国においてクローズアップされやすいが、戦勝国のリーダーだって、つねに100%一刻一刻最適な選択をしてきたと言いきれるか?
リーダーの弱みばかりを見るメンバーは、結局のところ、それだけのリーダーしか持てないのである。

ヒーローとは、悪者になることと見つけたり。


夕暮れのオリンピックスタジアム(プノンペン)。ヒーローはつねに孤独