日本人のあたりまえは必ずしもすぐには通用しません、というあたりまえのことがわからない人達。

外国に工場を建てたとき、
外国の下請けを使うとき、
あたかも外国人は日本人と同じように思考し、行動し、
日本人と同じように集団主義で、空気を読み、サービス残業し、過労死する、
かのように日本側から見えるインタフェースを提供する、
プログラミング言語の世界でいうところのwrapper
それが駐在員であり、現地トップであり、あるいはブリッジSEである。
カタカナではラッパとなるが、べつに正露丸を愛用しているわけではない。
どっちかというと太田胃散かもしれない。

実際にはもちろんそうではないわけで、
私が日本人とそっくりだと日々感ずるカンボジア人でさえ、
日本人が食ったカスやティッシュを食卓の上に放置する(さっさと床に捨てない)のを見てかぎりなく汚らしく感じるし、
ドアは開けたら閉めるなどという習慣は風が通らず非衛生的きわまりないと嫌悪する。
ただ、上から言われたことに逆らったら殺される時代のトラウマが抜けきらないからその惰性で従っているだけである。
まあ、給料もくれるしネ。

日本人の習慣や思考様式、行動様式、風習や倫理や善悪など、日本人があたりまえととらえるものごとは当然ながら、日本の風土において発達したものであり、よその風土では不適切となるものが、日本国内に住んでいて頭で想像するよりもはるかにたくさんある。

「あたりまえ」なんて幻想です。日本ドメな人にはそれがわからんのです。

が、
OKY
などとは死んでも口にせず、がんばるのが彼ら日本と外国のインタフェース要員なのだ。
それを言っちゃあおしめえよ!
彼らっていうか僕もそうだけど。

さいわいウチの社員が接する日本の方々は、自分で海外にも出られた経験があるので、そのあたりの勘違いは世間一般よりは非常に少ないほうだ。

CJapaneseCompanyをそもそも継承してないクラスにIJapaneseCompanyを継承させるためには、実装において当然、かなりアクロバチックなことをしているんである。
現場トップが優秀すぎてそれが日本側へ見えないと、なんの苦労もないように見えるかもしれないが。
私はそのへん適度に優秀なので、いろいろ日本側へ日々見えてしまっているということもある。

もちろん、工場、という、一つの個別文化によって左右されない、司馬遼太郎言うところの「文明」に属するものについては、それ独自の効率と論理があるから、開けたドアは閉めろというのはその限りにおいて正しい。
それは日本人のあたりまえではなく、工場経営のあたりまえであり、日本にかぎらず、世界じゅうでうまくいっている工場でならどこにおいても実践されているわけだ。
逆にいえば、世界じゅうどこの工場においても、今この瞬間、日本の良い工場よりもさらに進んだ習慣を編み出して定着させている工場があるかもしれず、というかきっとあるわけで、というかすでにたくさんあることは明らかで、ひょっとしたら極端な話カンボジアの工場において一介の工員のおばちゃんが今日それを編み出したかもしれず、そしたら日本人が逆に学ばねばならん。
その前提あってこその5Sでありマネジメントなのである。
日本人のあたりまえが無条件未来永劫カンボジア人に優越するわけではないと我々はキモに命じなければならない。

逆に、そこさえ日本人がしっかりわきまえていれば、ともに良い姿勢をカンボジア人と作っていく環境は形を成してくるものなのである。


日本の公共交通機関において示されるさまざまな注意書きや「マナー」も、乗客が互いにきわめて無関心であるという状況が前提としてあるかぎりにおいて次善的に「正しい」。