外国語力なんかより、言語論理力と言語伝達力の間にある言語本質力を磨け。

よっぽど頭悪い人でない限り、何かを言うとき、頭の中で論理は組み上がっていく。
ちょっとそうでない人とは、短い人生、会話を長く続けようとは思わないので、ここで論ずるにも値しないということにしたい。
その論理に相手が同意するかはもちろんその後の話だ。

言語伝達力はもちろんマナーとしては大事だ。
その中に、なるべく流暢に外国語で会話できる、という能力も含まれる。
だが、ネイティブでないかぎり、いなネイティブであってすら、一つの言語を100%使いこなすことは不可能だ。
知らない言葉は必ずある。
相手が物珍しい表現をあえて使うことだってある。
言い表したい概念をドンピシャ言い表す学術語や俗語がすでに世の中にあるときでも、自分はそれを知らないかもしれない。

したがって実用的には、人生において最後まで重要なのは「言語本質力」ということになる。
これは私の造語だ。
外国語能力とは異なる。
いかに簡単な語彙だけで高度な内容を表せるかの指標。
言いたいことを高度に「因数分解」する能力が求められる。

たとえばあなたがクメール語初学者であるとする。
だがカンボジアへ行ってしまった。
そのとき
「忙しい、とひとこと言うのも言い方ってもんがあると思うんだよね、問題にしてるのは表面的な語彙じゃないんだよ」
カンボジア人に言いたくなったとする。
(ちなみにこれは、私がまさについさっきカンボジア人に言いたくなったことだ)

だがあなたはこの日本語文の中にある単語のうち、クメール語でいえる単語が一つか二つしかないとする。
諦めるか?
それでは負けだ。
いかにこの内容を、自分の知ってる単語だけで表現するか?(笑)
それが私の思う「言語本質力」である。

これを磨いた人間こそが最後には勝つ。
ていうかこの能力がなければ全く何も捗らないだろう。
ネイティブである日本語においてすら、やはりこの能力によって、より多くの人とより短時間でわかりあえるようになる。
言語能力を先鋭的に磨いていって話がより通じやすくなるのは専門家どうしの間だけなのであるから。
(ときおり、そういう語彙を一般人向けにこれみよがしに使っている専門家がいるけれど、バカなのでここでは論ずるに値しないとしたい)

要は…なんでこんな記事を書いたかっていえば、
親族社員問題について、妻をこちら側につけることに、私の言語本質能力の精髄の集大成をすべて注力しきって成功した。
何が論点なのか、やつらはネイティブだから簡単にねじまげられるからね。
だが、何もするエネルギーを失ってしまった!


サラダバーおかわり禁止のソリヤSCのピザ屋(プノンペン)。「制約が厳しすぎる」「武器が乏しすぎる」を自分への言い訳にせず、その条件のもとで出来る積み上げに極限まで挑戦したい。