学校の先生が勉強を教えれる必要はない時代になったのかもしれない


Koshianさんのネットで学校というエントリに触発されて、考えてみた。
いじめっ子といじめられっ子を生み出すもの - 狐の王国


このエントリは、僕なりに乱暴に要約すると、学校なんか行かせなくたってネットで勉強させられるじゃないか、(そうすればいじめなんか起きないよね)という提案だ。


タイトルから察するに、ちょうどニュースになっているいじめ問題に乗っかってホッテントリメーカーって感じなんで、帰結部分はあまり具体的には詰められていないと感じたんだ。


親を持つ子供がこのテのアイデアに接してまず感じるのは
「子供をいかにして机に向かわせるか」
そこをまず考えてくれよという点なんだ。


Koshianさんや私は物心ついてから自発的に机に向かってきた良い子的自覚があると思うが、世の中の子供の大半はもう少し自由闊達であり、残念ながらそうではない。


誰もがまっさきに思いつくのは「親が見る」ということだが、古今東西、子供の教育を学校に頼らず親が見た話が美談として語られる理由は、それ自体が、そういうことがかなり稀有な徳行ないし贅沢であることを示していると思う。
思うというか我が身に照らして切実に悩んでいる真っ最中だから、この問題は身を切られるような当事者感を僕なりに持っているんだ。


ぶっちゃけ、専業主婦(夫)かプチリタイア組かNEETでもない限り、たいていの親は、仕事忙しすぎ(楽しすぎ)、子供の勉強なんて見てるヒマねーよ! ってことだ。
(それでも僕は見てるほうだと思いますよ、子供の幼稚園は英語の宿題山ほど出してくるんで…。妻は英語できないんで全部僕に回ってくるんである)


子供を週一回通わせてるプノンペンの補習授業校の保護者の集まりでも、
「もっと親が勉強を積極的に見てやるべき。学校の授業にも親の補助を義務づけるべき」
という提案をする保護者がいて。
そりゃそれできるヒマ(と意欲)があればどんなにか…。
皆さん必ずしもそんなヒマはない。
だから、言い方悪いけど、カネで解決しようとするんだ。


と文句ばかり言っていてもしかたないので、子供がネットで日本語その他勉強してくれたらいいなというのは僕の切実な願望でもあるので(大人がネットで学習する環境はすでに整いきっており、やらないのは単なる怠慢なのでここで論ずるにも値しない)、それをいかに実現するか素人なりにちょっと考えてみた。
どんなにくだらなくても、具体案の伴うアイデアならば、最低限でもブレインストーミングのにぎわいぐらいにはなりえるので。


経営者として私が正しいと思っている考え方の一つに
「桃太郎経営」
ということがある。
あなたはスーパーマンかもしれない。
しかし、同様のスーパーマンなどめったに得られるものではない。
カンボジア在住でプログラミングとマネジメントに長けた仕事熱心な日本語ネイティブ、ビジネスで通用するクメール語と英語、ベトナム語タイ語・中国語・韓国語もできれば尚佳」
そこで、それぞれ得意分野を異にするイヌサルキジを3人集めて、合わせてあなたと同じ能力になるようにする、これが桃太郎経営だ。


考えてみたら、学校における強制力としての教師は、物を教える役としての教師と同じ人でなくてもいいことに気がついた。
たとえば子供が家で、ネットで日本語なり算数なりを学ぶ。
その席につかせるには、いくらネットの教育コンテンツを楽しくしたところで、ややベターという程度にすぎない。
世の中にはもっと楽しいことがたくさんいくらでもあふれているからだ。
4歳児にとって、6歳児にとって、中学生にとって、その楽しいことはそれぞれ違うけれど。


なので、日本語とか算数とかの学習内容わかんなくてもいいから、席につかせる役を雇う。
これは家庭で1人雇ってもいいし、複数の家庭が共同で1人を雇ってもよい。
後者の場合は学校的(塾的)になるが、自由競争によってそういったサービスを複数選びやすい環境があれば、いじめにあうような場を避けることができる。
いじめっこを入学させてしまったサービスは滅ぶ。


つまり子供に2人の「先生」がつくのだ。
・ネットごしの(生身の人間とは限らない、ソフトウェアかもしれない)、ネット教育役。評価までキッチリ出す。
・生身の、その場にいる、子供を席につかせる役(ぱっと見既存の先生と同じ、しかし、学習内容を理解している必要は必ずしもない点が従来型教師と異なる)。


つまり、実は学校の先生が勉強を教えれる必要はない時代になったんじゃないかと思ったり。
実技系科目はまた別かもですけどね…。


これならけっこういけるんじゃないかなーと素人なりに漠然と思ったんですが、どうでしょうかねぇ。