外国語としての日本語を話せる日本人が少ない


http://blogs.itmedia.co.jp/arc/2010/08/post-44bf.html
を見てあらためて考えた。
 日本人に英語や現地語を強要することの最大の効用は、日本というハイコンテキスト社会で生まれ育った日本人が無意識に持っているコンテキストを捨てさせることかもしれません。
 日本語を禁じられ、英語や現地語で論旨を組み立てるなかで、日本人の「あたり前」がそぎ落とされていく。ローコンテキストなメッセージを組み立てざるをえない。そうして意思疎通が円滑になる。


 逆に言えば、日本語で外国人と意志疎通するのであっても、コンテキストをそぎ落とした話し方をする訓練をして身に着けていれば、同じ意思疎通効果が得られるのではないかという気がします。
 相手が日本留学経験があったりして日本のハイコンテキストを充分のみこんだりしている場合には、日本人の側はハイコンテキストのままでしゃべってもそのひととは意志が疎通できてしまいます。
 そうしてコロッとやられちゃうわけです。
 中国でもカンボジアでも、そういうケースを見てきました。


 幸いというかカンボジアでは、まだ日本人のコンテキストを身につけたカンボジア人は少ないので、コンテキスト過剰ということに日本人の側がいやおうなく自覚的で日々いられることができます。
 このコンテキストハンドリングが現地人の側へ握られたとき、その日系企業は現地化を果たしたと呼ぶのがよいのか、現地にのっとられたと呼ぶのがよいのかわかりませんが、個人的にはそれは両手をもぎとられるような不安を感じます。