タイタニック願望

 社会主義で長く暮らしてきた人たちの社会の空気は、日本の小学校の空気に似ている。
 「ほんとは今のまま馴れ合ってちゃダメなんだ、でも僕からは言い出せない、言い出したら抜け駆けと言われる」
というあの空気である。


 組織の成員のやりたいことは、必ずしも、組織のやりたいこととは一致しないことが多い。
 組織は社員一丸業績アップに努めたいかもしれないが、社員はマージャンしたいかもしれない。
 しかしこのままではその組織は小学校と何ら選ぶところがない。


 小学校では逆に、なるべく子供がやりたいことをやらせてやれる教育のほうが望ましいかもしれない。
 しかし、子供がやりたくないことでも、教育しなければならない内容は多い。
 子供に迎合しすぎるのは問題だ。
 だが、「一致しているよう見せかける」努力はあってよい。
 悪くいえば、「子供をだまくらかして、本当は子供があまり好きでないものも食わせる」テクニックである。
 教育効果を挙げるために。
 まして、一般の組織ではこれは大事なことだ。利益・業績や社会貢献といった効果を挙げるために。


 しかし、小学生にはそれが自分らではできない。自分だけ先がけたと思われたら、「よい子ぶった」としてイジメにあうからだ。
 イジメられようがオレはオレの道を行く、という自立した大人の自我は、まだ彼らの中には目覚めていない。
 教師が正しく指導してやれば彼らは喜んでやる。


 同様に、社会主義に慣れた社員にもそれはできない。自分らで自分らの道を切り開けない。自分だけ先がけたと思われたら、「よい子ぶった」としてイジメにあうからだ。
 が、上司が正しく指導してやれば、驚くほど彼らは変わる。


 こんなとき、上司である私はつい、こう感じてしまう。
「こいつらは12歳か…」


 日本に近頃蔓延する「外圧待望論」(ないし自力更生悲観論)には、こうしたベトナム人カンボジア人と同じ空気を感じる。
 マッカーサーが「日本人は12歳」と述べたのも、おそらく僕と同じような気持ちで言ったのだろう。
 「述べた」と書いた。ここで「看破した」と書けば日本人の大方は今でも怒り出すだろう。だが外圧待望論がしつこく飛び出すうちは、怒る資格ないのではないか。もちろん「妄言を吐いた」と書けば韓国紙になってしまう、そこまでの独善的表現を求めないほどには成熟していると言えるだろうが…。だから「述べた」と中立的に書いた。


「自分から動け! 自分のためにもっと考えろ! 大人になれ! 自立した精神を持て! 教わるのを待つな! 足を引っ張りあうな!」
 小学生じゃないんだから…。
 マッカーサーの想いは実感としてそのあたりにあったのだろう。


 外圧の神マッカーサー様、ペリー様、日本人はあれから成長したでしょうか?
 日本が今年しあわせになりますように。


 ベルリンの壁が崩壊したころ、東京パフォーマンスドール(TPD)というグループが作られた。
 ひと夏、原宿ルイードで毎日歌い踊っていた彼女たちを見に行ったことがある。
 コアな客しかいなかった。芸能界ごっこという感じがした。
 その「ごっこ」感が払拭されたのは、グループ内に公然と競争原理制度が導入され、メンバーの無慈悲な入れ替えを行うようになってからだ。
 僕らはその無慈悲さに驚いた。ファンとして、大いに違和感も抱く者もいた。


 思えばあれは壁崩壊が象徴していたグローバリゼーション、新自由主義、何と呼んでもいいが、そうしたイデオロギーというか社会のしくみを、日本の一角で実験的に導入してみたケースだったのだと思う。
 米国の傘の下で、保護主義経済や縁故主義民主主義、年功序列で上から下まで馴れ合っていた日本社会に打ち込まれた、新しい世界のルールの楔、といったら言い過ぎだろうか。
 そう考えれば、TPDが「ゴルビー」や「サミット」といった共末(共産主義時代末)モチーフで遊んでいたこともゆえなしとしない。
 11月9日。すべてが転換したあの時。幕末小説と同様、やがて共末小説が著される時代が来ると思うが、今はまだ時代が近すぎて時期尚早なのだろう。当時としては、ああやって遊ぶぐらいしか扱いようはなかったと思う。
 そしてあの時まだ、GlobalizationならぬGorbalizationの到来の真の意味を、まだ多くの日本人はわかっていなかった…。


 古い人間なので、「宇宙戦艦ヤマト」はさらばまでしか認めない。後期のヤマトはどんどん俗っぽくなってきて、テレビシリーズでは相原に「保護国とかいって、実質植民地じゃないか!」という時事ネタを吐かせたりしていた。ソ連がアフガン侵攻してすぐの頃だ。
 「ゴルバ」なんて名前の宇宙要塞も出てきた。ソ連をパロった敵方「ボラー連邦」の要塞だったと思う。
 ゴルバチョフは、ペレストロイカグラスノスチから始まり、最終的にソ連をぶっ壊した張本人となったわけだが、この要塞名を付けた人間はなんにもわかっていなかった。
 もちろん、当時は日本人のほとんどがわかっていなかったのだが。


 日本は勝ったと思っていた。
「歴史の終焉」。その終焉した歴史の後に残ったもののなかに、自分たちもいると思っていた。
 それどころか、そのトップに立つと思っていた。
 何しろ、米国をも追い抜きつつあると本気で思っていたのだ。
 米国は当時ただ単に、次の時代に備えて雌伏し爪を研いでいただけだったのに。
 そして背後から急速にひた迫る、中国や東南アジアの影にもほとんど気づいていなかったと思う。


 バブルだった。
 夜、タクシーが捕まらず、万札をかざしていたというベタなイメージはさておき、皆が浮かれていた。
 ちなみに蘇州でも夜タクシーが捕まらず往生したが、女の子は「バスに乗りましょう」と言った。「赤いお札を振りましょう」とは言わなかった。
 今でも、あんなアホな時代がほんとにあったのか、と不思議になる。
 たしかに自分も、あの時代を生きていたにもかかわらず…。


 六本木の大学院に入った頃、バブルはすでにほぼはじけていた。
 研究室の女の子(髪が長くハーフっぽい)が、路上でディスコ(当時もっとも有名だった)の無料招待券をもらってきた。
「これ、みんなで行こうよ!」
 空気読まない僕らは、ケミカルジーンズ(研究室の酸バスで穴のあいた、文字通りの)を履いて、ぞろぞろとディスコへ入っていった。
 所在なげにはじっこに固まっていた。
「こんなオシャレな場所に、僕らでも入れるなんて、なんかこのディスコもショボくなったのかな?」と考えていた。
 ショボくなったのはディスコだけじゃなく、日本全体だとはまだ知らなかった。


 TPDの容赦ない競争システムに、僕らは若干ヒきつつも、新しい時代の実力主義を感じて、拍手を送りもした。
「信じてくれてるあなたに、見つめられて夢がかなうの」(Overnight Success)
そう歌う彼女らのがんばりに、若い自分らを重ね合わせても見た。
「オレもがんばるぞ!」
 それはアイドルの鑑賞法のうち、もっとも前向きで健全なものだった。


 同じしくみをAKB48が今とりいれている。
 僕も何度か現場に足を運び、高橋みなみchanと握手もした。
 だが当時と今とでは、この競争システムに対するファンのとらえ方は微妙に異なるように感じた。
「僕らにできないことを、彼女らがしてくれる。そこにしびれる憧れる…」
 現実世界でかなわない夢を、せめて舞台の上の君に仮託したい。
 それはアイドルの鑑賞法のうち、もっとも後ろ向きで不健全なものともいえよう。
 ファンたちはくたびれていた。


 90年代後半、映画「タイタニック」があんなに人気を博したのは、格差社会エスタブリッシュメントが海に沈むさまが、底辺層にカタルシスを感じさせたからだという説がある。
 1998年5月30日号の「エコノミスト」誌は、この映画について「頑固なマルクス主義者の視点を呈しているが、一、二の金持ちの乗客が海へ沈んだとき、アメリカの観客が大喜びしたのには、なんというか、背筋が寒くなった」と書いている。(トーマス・フリードマン「レクサスとオリーブの木」から孫引き)
 それと同じ想いで今、抑圧された多くの底辺日本人が、外圧によって日本という親方日の丸が沈む日を心待ちにしているとしたら、それこそ薄ら寒い想いに襲われる。


 だが、残念ながら日本は沈まないだろう。
 日本政府がとれる政策は、グローバル化のなかですでに極めて狭まっており、ほとんど選択肢はないということに、政治家や官僚の多くは気がついているはずだ。日本を沈める能力すら、自らの手からは失われていることに。
 気づいていないのは日本の一般民衆だけであり、それをマスコミが煽る構図となっている。
 ポーツマスのとき日比谷公園で暴動が起きたのと同じ構図だ。同じ地に今は「派遣村」という気づいてない人たちの大本山があるのも、皮肉な縁というべきだろう。


 日本は沈まない。
 老いさらばえていく君をのせて、ただ朽ち果てて大海をさまようだけだ。


 君に、日本から足ぬけする勇気がないなら、せめて、旅をしよう。
 日本を出て、何が起きるかわからないから怖いなら、せめて、旅をしよう。
 日本を出ると、大切な人を失うのが怖いなら、せめて、旅をしよう。


 旅は、計画して行ってはいけない。
 なんにもしないをするのが旅だ。
 出発日と目的地だけ今きめて、それ以外は何にも計画せずに発つのがいい。
 多くの人は仕事などのしがらみで、帰国日も決める必要があるだろうが、とにかく出発してから帰国するまで行き先で何をするかは、何も決めないのがいちばんだ。
 宿泊ホテルすら予約する必要はない。


 なぜなら、何が起きるだろうと予想して行く旅は、旅ではないからだ。
 何が起こらなかったかが旅であり、何かが起きてしまった何かが旅なのだ。
 日本には欧米のようなバカンスがないから、長期旅行でなければ味わえないような、「なんにもしない旅」など作れないというのは言い訳だ。
 2泊3日とかの旅でもじゅうぶんそれはできる。現地で3日何もしなければいいのだから。


 日本国内ですら、しらない駅でおりて一日中ただ歩きつづけるだけでも、ずいぶんいろんなことが思いがけず起こるし、逆にこんなことが起こるかなと思ってたことはまるで起こらなかったりする。
 まして日本国外に旅に出てみれば、3日間そこをただ歩きつづけることによって、まったく想像もつかなかったような知見が得られるし、いろんなことを考えさせられる。
 考える、ということが、日ごろ苦痛に思っているような種類ではない、考えずにはいられない、考えることが楽しみであるような、考える時間が得られる。


 僕自身のことをちょっと話せば、東京で働いていたころ、名古屋に数日泊り込みで出張してシステム開発した帰り、土曜の東海道線をふらっと降りてみた。
 「幸田」という駅だった。降りようと思いついた理由は、好きな子の苗字だったからだ。
 そこから山を越え、「幡豆」という町まで歩いて、海岸を一人歩いた。
 ホテルに泊めてくれと言ったが、満室と言われた。自殺者と思われたっぽい。
 ちっちゃい民宿が、泊めてくれた。翌朝「また来ます」と言ったらおかみの顔が心なしか引きつっていた。やはり自殺志望者と思われていたのだろうか…?

 山道で、通りすがりのおばちゃんが挨拶してきた。
 夕暮れどき、小さい女の子が時刻をたずねてきた。
 明らかに空室だらけのホテルで宿泊を断られる可能性も、当時の僕には予想外だった。
 旅は予想外の同義語だ。


 そのことに気づいて以来、僕は旅にやみつきになり、外国へも旅するようになり、それこそ会社を土日2泊3日で抜け出して、アジアのどこかの街をただほっつき歩き、いろんな物を見、耳に入れ、口に入れ、たまにアレをナニに入れたりもしながら、ひたすら歩いた。
 だんだん、自分の中の何かが変わり始めるのを感じた。
 それでも、外国での就職にオファーするとき、僕は一日部屋で一人悩んだ。
 僕がプロポーズをしたとき、妻が一日悩んだのと同じように。
 外国で会社を作ろうと決めたとき、妻にも誰にも相談せず一人部屋で一日沈思したのと同じように。


 そうしてここまで来てしまった。


 上から目線に感じられたらすまないが、率直に書かなければいつまでも伝わらないことだと思う。


 君も、旅から変わっていけるはずだ。
 それに伴って日本がどう変わるかなんて、知ったことか。
 大事なのは、君ひとりだけなんだから…。


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 まったく上の行を見ずに書きなぐった。思いつくことなら何でもよかった。校正はしていない。