『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』


注:ネタバレ


 映画館はテーマパークと化す。オトナたちをアクターとして。


 子どもたちは冒頭から中盤、劇中のオトナたちの不審な行動に戦慄するだろう。が、それと同時に、むしろそれ以上に、一緒に観に来たオトナたちの不審な様子を目にして、リアルな違和感を覚えるに違いない。
「ぎょっ、ママが意味不明のギャグで笑ってる」
「やべっ、パパがなんか号泣してる」
「どうしちゃったんだよ二人とも!」
そして最後、しんちゃんの活躍で家族に戻った劇中のオトナたちを観て安堵したあと、子どもたちは
「あれっ、パパママがなんかちょっと優しく、元気になったぞ?」
彼と同じ幸せをリアルで同時体験することになるはずだ。


 単なる映画を超えた、この参加型テーマパーク体験を子どもたちに提供するこの映画は、その意味でしっかり子ども向けしている。この映画を「なんというオトナ向け」と良くも悪くも評するオトナたちは、自分たちがアクターにされてしまったことに、おめでたいことにまるで気づいていない。劇中の「中の世界」で、それと知らず暮らしていた人々は、そんな映画館のオトナたちを的確に暗喩している。


 終盤のタワーで、走る家族を追うテレビカメラが執拗に描かれる。注意深い観劇者ならばここで、冒頭の20世紀的怪獣と家族とのドタバタシーンが、実はカメラの前の劇中劇であったことを想起しなければならない。ひょっとしてこの、20世紀的ノスタルジーと家族との追っかけシーンも、実はカスタムメードなシナリオの劇中劇なのではないか? そんなひねくれた予想が脳裏をかすめなければならない。


 表向き、そういうオチにはなっていない。いくらなんでも、子ども映画と言っておいてそこまではさすがに許されない。テレビカメラは、過去にとらえられたオトナたちがしんちゃんたちの奮闘を目にするための道具立てになっている。が、さきにふれたように、この映画の「オトナ向けぶり」にホロリきているあなたもまた、映画館の子どもたちに向けて、このオトナたちを演じてしまっているのだ。つまりあなたが劇中劇なのであり、してみるとこのテレビカメラは実のところ、この映画のカメラ、すなわちあなたの眼そのものでもあるという、巧妙に隠された重層構造の中にあることになる。終盤のたたみかけるような作劇の妙が、観る者にすぐには、そこまで思いを至らせないしかけになっている。アクターに徹してもらいたいオトナたちにこれにすぐ気づかれてしまうと、子どもたちにとってのテーマパーク効果が薄れるだろう。


 未来を求めてひた走るしんちゃんに、声援を送る映画館の子どもたち。映画館のオトナたちはそんな子どもたちを見て微笑ましい気持ちを感じることによって、オトナの目線に立ち返らされるとともに、ああノスタルジーもよかったけれど、やっぱり未来がいいなと再認識する。そこですかさず「オトナたちのにおいが変わった」と宣言する彼は、劇中人物にして敵役ながら、その実、このテーマパークの案内人を見事に務めたといえよう。オトナに対しても、子どもに対しても。


 かくして映画館であなたはひろしとみさえを演じ、子どもはしんちゃんとひまわりの役を得る。そしてハッピーエンドを観終わった後も、リアルなあなたがたはその続きを演じていくのだ。


 子どもに映画を観せに来たつもりが、とんだ劇中劇に放り込まれてしまったものである。