行ってない国を語らない
伊勢に行ってない人がお伊勢参りを語ったら人は嘲うだろう。
東大に行ってない人が東大を語れば人は噴出すだろう。
なのになぜ行ってない国のことをあんなにも好いたり嫌ったりする人がいて、それを不思議に思う人が少ないのだろう。
タイの赤シャツ隊・黄シャツ隊が、タクシン元タイ首相をおっかけてカンボジアに陸続入国したそうだ。
その心意気や良し。
現実のカンボジアを訪れ、そのうえでなおカンボジアを嫌う気持ちが収まらないのであれば、その気持ちは本物だ。
観念のカンボジアを嫌悪し、メディアのカンボジアを唾棄し、ネットでカンボジアを揶揄しているうちは、単なる国境内ひきこもり君にすぎない。
日本語でそれを「内弁慶」と呼ぶ。
今日は朝から何も食べていなかったので、退勤後はハン市場そばのタイ料理屋へ直行し、カパオ+飯とパッタイとケーンキアウワーン+飯、一度に3食も食べてしまった。+7up2本で250千ドン也。
店内にほどよい音量でさりげなく流れる、タイの歌謡曲の旋律とリズム、そして音色と声色がとても心地よい。
ああタイの音雰囲気はこんなにも洗練されて、かわいくて、しゃれた響きに満ちているのに、きこえてくるニュースはどうして皆、タイ人の狂信的愛国性を示すものばかりなのか。
ベトナムのド演歌は、原日本人の心には沁みるのかもしれないが、西洋的な家庭に育った僕には無理だ。
ベトナムのポップスは、いまだにスラブの哀調を色濃く残している。いい加減ソ連の影響を脱したらどうなのか。こんな万年冬景色どよ〜んみたいな曲調、熱帯の君らには合わんよ。
これらを、すべての家が大音量で鳴らす。音の暴力は、もっとも許しがたい暴力の一つであると、高校時代英語の先生がおっしゃった。逃げられない。
あなたの家がテレビを買ったことはもうわかったから、そろそろ勘弁してください。
映画「フェーン・チャン」で、20〜30年前のタイの歌謡曲がテレビでかかるが、それすらすでに大いに洗練の趣を感じる。
してみるとこれはもはや民族的な嗜好の違いであって、百年待ってもベトナム人のセンスはタイ人に「及ばない」(西洋的価値観で)ということなのか。
サムットサコーンの駅前の食堂で流れていた音楽だって、トラートの市場で流れていた音楽だって、充分に洗練されていた。タイの洗練は、バンコクだけではないのだ。
もっともベトナムじゃ、ハノイやサイゴンでも洗練は今のところ見当たらないようだが…
…といったことも、訪れた国であればこそ愚痴れる話で、ベトナムやタイ行ったことない人間が仮に見よう見まねで大上段に語ったとしても、観念走るだけの話だ。
だから僕も心に決めようと思う。
行ったことのない国や地域の批判は今後しない、と。